一億総評論家時代といわれて久しいです。誰もが批判されることを恐れて、常に外側から事態を眺めています。
物事を真正面から見ずに、斜めからしか見ることができない私たち。それは、確かに気楽です。しかし、誰も世の中に参加しなければ世間は回っていきません。
誰もが傷つくことを恐れ、局外中立、つまりどんなことに対しても「他人事」を装うようになった、その結果が、小泉首相の独走を生んだのです。
自分がもし権力を握ったらどうするか、心あるものは想像してみることが必要です。
しかしながら、初めから二番目になることしか考えられない。もしくは、高い地位について責任を取らされるのなんて真っ平だ。責任は取りたくないが美味しい汁にはありつきたい。どうせそんな輩ばかりなのでしょうか。
原理原則がなおざりにされ、要領のいいものばかりが評価されるような社会ではいけません。だからモラルが地に落ちるのです。
もちろん、こういうのを完全になくすのは、無理でしょう。人間ならば、ズルもするでしょう。
しかし、私たちの年代だと、子供の頃から「それでも良心は騙せない」とか「天知る地知る我知る」とか言われて、道に反する行いはしないように歯止めをかけられていたものです。
偉い方々はどうか知りません。しかし、庶民の半分くらいはそうやって生きてきました。
しかるに昨今はどうなのでしょうか。何を持って正しい道とするか、社会的合意はあるのでしょうか。プライドとか、矜持とか、恥とかの概念はまだ生きているのでしょうか。
ところで、あるところでこんな話を読みました。嘘か本当かはわかりません。
田中角栄元首相は、金に汚い政治家ということでさんざん評判を落としました。ロッキード事件では、確たる証拠もないのに、どうせもらっているだろうと、ほとんど機能していない法律で別件逮捕されました。
当時まだ私は小学生でしたが、マスコミの関心は、アメリカの公聴会でのいわゆるコーチャン証言というものを証拠として採用するかとかいった技術論に終始していたという記憶があります。
もちろん、田中は黒だけれどもという前提で話をしています。
ところが、田中は大真面目に、びた一文たりとももらっていないという立場でした。この俺が、外国のエージェントから金をもらえるかということです。
でも創価学会からはもらったんでしょう?と言う突っ込みはさておき。
その話は確かに聞いたことがありました。でも、当時の雰囲気では何を図々しいこといってやがるんだという感じで、誰もまともに取り上げなかったと思います。
しかし、今にして思えば、それはありうる話です。田中角栄なら、児玉のような薄汚い人間に尻尾をつかまれるようなことはするはずが無いような気がします。
やっぱりあの金は中曽根がもらったのでしょう。しかしそんな、プライドもへったくれもない彼が、タカ派として愛国心を売り物にしていたのだから、当時からいかに政道は地に落ちていたかわかります。
ということで話を戻しますが、私の言いたいことがわかりますか?
つまり私たちは、たとえ損をしてでも、誇り高く、正々堂々と天地に恥じない生き方を目指すべきだし、そういう人たちを正等に評価する感覚を取り戻すべきではないかと思っています。
もちろん、そんな簡単にはできません。しかし、現代の日本社会はあまりに本音が横行し、骨抜きになってしまいました。国民は本能だけで生きている動物のようになってしまいました。
誇りといっても、中国人や韓国人に対抗して見せる感情のことではありません。その辺間違えないように。他人とは関係なく、自分で、自分の人生を誇ることができるかと言うことです。
悲しいことですが、現在、日本の価値観の主流は、すべてにおいてお金が一番です。拝金主義というこの趨勢は、まだしばらくは続くでしょう。
しかし、転機は必ずやって来ます。それがスムーズな連続となるか、一種のカタストロフィを伴うのかはわかりません、しかし、それはそれほど遠い話ではないと思っています。
その日のために、少しずつ準備をしていきたいと思っています。
何かご参考になりましたら、ぜひこちらを。
失礼いたします。
他者への批判について、拙僧が最近ちょっと眉をひそめたくなったのは、どうにも他者への批判を通して、自らの優越性を確認している人が少なくないということでしょうか。
そうであれば、かつてニーチェが批判したように、あくまでも優越感がもたらす満足感だけが重要なのであり、批判自体はその手段になってしまいます。
そこに、批判の正義はありません。その意味では、管理人様ご指摘の「批判される勇気」そして、「批判しない勇気」もあって然るべきかもしれません。
コメントありがとうございます。
私のブログの特徴から言いまして、このエントリーにはコメントはつかないだろうと思っていましたので、ご意見を頂戴して大変嬉しく思います。
実は最近、なんでもかんでも批判する事の愚かさをつくづく感じています。
確かに多くの人は批判を行う際に「市民」とか「正義」とかの名に於いてやっているわけですが、ご指摘の通り、本音は、優越感の確認であったり、もしくは私怨の解消だったり、或いは単なる嫉妬心だったりするので、辟易する事も多々あるのです。
更に言えば、本当の意味で他人を批判すれば、自分が無傷ではいられるはずがない。つまり、必ず返り血を浴びると言うことが理解されていません。100%絶対安全地帯からの批判など、有り得ません。
私はかなり、そのジレンマに悩んでいます。根源的に批判すればするほど、自分の足元が崩れていくように感じています。しかし、そうでないと人の心に届く言葉にはならないと思うのです。
せっかくブログをやっても、そんな言葉しか書けないのでは意味がないのですよね。