2005年10月11日

宗谷海峡の向こう側



改革ファシズムを止めるブロガー同盟に賛同していらっしゃる、ヘリオトロープの小部屋の記事「置き去り」を読みましたので、それについて書きます。

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非国際人も日本にいるときは旅行が好きだったので、いろいろな所に行きました。北海道にはなかなか行けなかったのですが、行くからには絶対、最北の地稚内には行ってやろうと思っていました。稚内には、旭川から、宗谷本線の鈍行列車に乗って行きました。4時間ほどかかります。途中からは森がなくなり、一面の熊笹の上を風がピューピュー吹き付ける荒涼とした原野を走っていきました。

しかし、そんな風にしてたどり着いた街、稚内は拍子抜けしてしまうくらいなにもない町でした。日本最北端の線路が雑草の茂みの中に消えています。かつてはこの線路がさらに北まで伸びて波止場で樺太に行く連絡船に乗りかえることができたそうですが、今ではその面影もありません。

樺太の南半分が戦前日本の領土だったことは、読者もご存知のことと思います。しかし、満州や北方領土と同じように、ソ連軍の急襲を受け、略奪と殺戮を欲しいままにされたことは記憶にとどめておくべきでしょう。

有名な話に、「9人の乙女の悲劇」というものがあります。稚内市役所のHPより
  樺太では8月15日以降も戦争が行われたのです。ソ連軍は真岡(ホルムスク)に迫りました。当時、真岡郵便局で電話交換業務を行っていた若き交換手9名は、戦火に包まれている中でも仕事を全うしていました。しかし、近くまでソ連軍が迫ってきたのを知ると、まだ通じる電話で最後の言葉「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残し青酸カリで集団自決したのです。
現在、郵便局のあった場所は、壊されてアパートになっています。しかし、北海道・稚内市のサハリンが望める丘の上の稚内公園には、彼女たちの霊を慰めるために「9人の乙女の碑」が建てられています。戦争により夢多き若い生命を絶った彼女等に捧げられる鎮魂の碑でもあります

しかし、逃げ遅れた人や、死ぬことのできなかった人達にはもっと過酷な運命が待っていました。何とか生き残った人は、現地のロシア人や朝鮮人と結婚せざるを得ませんでした。しかし、満州地区の残留孤児のように社会の注目を浴びることもなく、1990年代近くになるまでその存在は多くの人に知られることはなかったそうです。

もう前の戦争が終わって60年が経ち、日本人の大部分は戦争を知らない世代になりました。しかし、この人達にとっての戦争はまだ終わっていません。

私はこのエントリーで特別に政治的な主張をするつもりはありません。しかし、勇ましく戦争を唱える人たちは、戦争が、上のような事態を引き起こすということを、知っておいて欲しいと思います。今、中国と韓国に、いったいどれだけの邦人がいるのですか。そして、いざ何かが起きたときのための策は、だれか考えているとでもいうのですか。

前の戦争では、日本政府は必要な措置を取りませんでした。これに反省しているのか、どうなのか、海外在住者の私ですが、信用していいのかどうなのか、わかりません。


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この記事へのコメント
TBありがとうございます。
サハリン残留日本女性に関しては、ソ連への敵愾心をそぐというよりも、政府に都合が悪いことだったからでしょう。
ところで満州では開拓団を置いて日本軍は逃げてしまったそうですね。樺太ではそういうことはなかったようですが。

吉武輝子さんが言いたいのも、戦争は個人の生活も幸福も破壊し、その傷は永久に癒えない、ということです。
Posted by ヘリオトロープの小部屋 at 2005年10月12日 10:22
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