2005年11月15日

抵抗勢力とはプロテスタントのことではないのか



ブラジルに住むようになってたった6年の皮膚感覚で語って良い物かどうかわからないけれど、自分の本能を信じて書いてみます。なお、当エントリーは全くの勘で書いていますので、基本的な勘違い等あったら遠慮なくコメントしてください。


まず、ブラジルはサンバの国でもサッカーの国でもなく、まず第一にカトリックの国なのです。これが、宗教観の希薄な日本人にはわかりにくいと思います。

で、カトリックというのがまたわかりにくいです。私は日本にいた頃はカトリックとプロテスタントの区別もろくにつきませんでしたが、どうも最近、全然違う宗教のような気がしています。

キリスト教というと、一神教とか、契約とか、原罪とか、偶像禁止とか・・・具体的なモノでなく、わたしたち日本人が言葉としてイメージしているキリスト教は、実に厳格で厳しそうです。

ところが、これって実はプロテスタント流の解釈ではなかろうかと思っているわけです。というとお叱りを受けるかもしれませんが・・・


と言うのは、カトリックの教会とかに入ると、偶像崇拝しまくりなんですよね。有名な教会の近くには、そういうグッズを売っている店が沢山あります。中にはそれだけで街の経済が成り立っているようなところさえあります。

それにその種の偶像って、イエス様だけじゃなくて、マリア様から始まっていろいろな聖者に及ぶわけですが、これって、彼らの教義の中では一体どういう位置付けなんだと思うわけです。確かに神さまは一人しかいないのですが、神様って言葉こそ使わないだけで、実際にそれに対して拝んじゃってます。具体的にこの聖人はこういうことにご利益があるなんてことまで言われていて、それだったら日本の宗教とどこが変わるのかと思います。

例えば、聖エクスペジクトという人がいるのですが、この人を祭っている(と言っていいのかどうかわかりませんが)教会に行くと、等身大の像があって、触れるようになっている。そして、触った所が具合がよくなるとういう落ちかどうかはわかりませんが、まあキーホルダーになるくらいポピュラーな聖人さんです。

それから、もっとよくわからないのが、padroeira do Brasil(ブラジルの守護女神)なんて言うのがありまして、これをブラジルの各家庭で飾っているわけなのですが、どうしてそんなローカルなものの存在がカトリックの教義の中で許容されてしまうのだろうということが根本的にわかりません。


で思ったのは、カトリックという宗教は恐ろしく柔軟性があるということです。ある意味日本の宗教と一緒で、何でも取り込んでしまっても全体としてのシステムに支障を来さないのです。

しかしそれは、私たちがイメージしているキリスト教とはかけ離れています。私たちは、昔からキリスト教は一神教だからエライのだ、その点日本のように、そこいら辺にあるものあらゆる物を神にしてしまうのは、いい加減さの現れだと聞かされて来ました。

ところが、実際に宗教がおこなわれている現場を見ると、なんだ日本と余り変わらないじゃないかと言う話になる。すると、私たちが今までキリスト教だと思っていたものは、一体なんだったんだと思います。


そこで、怖いもの知らずに大胆に推理(笑)。それがアメリカ経由のキリスト教、つまりプロテスタントじゃないかと思うわけです。

プロテスタントの精神が資本主義を生んだと言われてますよね?しかし本当にそうだと言う確かな証拠はないんです。イギリスだって、フランスだって、ドイツだって、厳密な意味でプロテスタントの国とは言えない。

フランスはカトリックの国だし。イギリスは一応新教国と言われているけど、イギリス国教会という、カトリックの亜種に過ぎないわけで。ドイツもルターが生まれたから新教国かと思っていると、キリスト教民主同盟などという、カトリック系の政党が永年政権を担っていて、特に不都合も起こらなかった。

つまり、歴史的に純粋なプロテスタントの国家って、アメリカか北欧しかない。もちろん実際にはアメリカだってカトリック人口が多いんだけど、国家のアイデンティティとすれば、宗教の自由を求めて流れ着いた清教徒に行きついてしまう。カトリックはアイルランド系やイタリア系の下層階級の宗教だ、となる。


となると、一神教だからエライという発想は、アメリカ発の発想なのではないか思ってしまう。もちろんカトリックも神様といえるのは一人だけなんだけど、三位一体説などでかなりきわどいロジックを使っているし、実際の運用を知ってしまうと、とても一人の神様を絶対視しているようなものではない。

もちろん、カトリックも十字軍運動とか、南米征服のような独善的な時代があって、これをもってキリスト教そのものの残虐性という捉え方をする人もいます。

しかしこれは、カトリックを日本の「かつての」自民党に喩えてみるといいのです(笑)。カトリックというのは一つの主義主張を表す言葉ではなく、そもそも「普遍」を意味するだけの言葉です。

そもそも十字軍当時のヨーロッパにはカトリック以外の宗教は実質的に無かったわけですが、それには二つの面があって、(1)カトリック以外の考えは認められなかった、か(2)さまざまな矛盾する要素までひっくるめてカトリックの範疇に含めてしまっていたか、のどちらかでしょう。

そこで、当時の権力の実態はと言うと、ローマ法王と神聖ローマ皇帝とに権力が分かれていて、しかも商業資本が台頭していた。外にはイスラムの脅威があった。すると、ある程度揺れる、というか便宜主義的な対応をせざるを得なかったのではないかと思います。

ところがそれが、イスラムの圧力が衰退するや否や分裂するというのがなかなか興味深いです。しかも、魔女狩り裁判を最後までやっていたのは後世の史家が資本主義の基礎を作ったと絶賛するプロテスタント側のほうだったという事実。

つまり、非理性的な性格は実はプロテスタントの側に残っていた。


南米侵略については、こういうことだと考えています。つまり、そもそもカトリックはその「普遍」性の故に矛盾する性格を内包しているといえます。その集団が、宗教改革という組織の危機に際して取った戦略が、南米及びアジアへの布教だったと言えます。で、その後カトリックは反省したはずなのだけど、その運動を推進したイエズス会そのものはまだ存在していて、日本の上智大学などもその系統の大学です。

だからカトリックというのは、すっきりしないんです。白か黒かはっきりしない所があるから。内部腐敗も昔からいろいろ言われているし。その点プロテスタントはわかりやすいですよ。だからカトリックのように矛盾を抱え込まないで、無数の小団体に増殖しているのがプロテスタント(そもそもプロテスタントって言葉自体が世間的に通用するのかどうか知らん)。

そういう意味で、カトリックを従来の自民党とすると、プロテスタントはそれ以外の野党と考えればいい。しかし今の世界情勢では、逆にプロテスタントのほうが主導権を握っちゃっている。

そして日本の政界は、それがさらにひっくり返って、自民党が改革政党となってプロテスタント陣営に荷担しているのです。そして、本来の保守思想の担い手が(プロテスタント=抵抗勢力とラベリングされて)弾き飛ばされてしまっています。元祖プロテスタントであったはずの共産党や社民党は存在意義を完全に失っています。

宗教改革後の世界というのは、ずうっとカトリックとプロテスタントの緊張関係で、良きにつけ悪しきにつけ運営されてきたのですが、二つの世界大戦を境にプロテスタントが圧倒するようになってきています。日本などでもつい最近まではカトリックと連携した民族主義派が政権を担っていましたが、この前の選挙で完全にグローバリスト=プロテスタント一派が権力を握ったと言ってもいいでしょう。


まとめます。
私の思い描いている世界観(仮)は、
(1)キリスト教世界において、カトリック(普遍)に対してプロテスタント(異端)が対立している。
(2)カトリックは非常に柔軟性が高くて、日本の神道や仏教などとも親和性を持っている。
(3)それに対して、プロテスタントは排他的、独善的である。
(4)プロテスタントの思想は、拝金主義と結びついて我が世の春を謳歌している。(共産主義も形を変えたプロテスタント思想であると私は考えています)
(5)一方、カトリックは今のところ負けっぱなしであるが、未だに貧困層を中心に幅広い信者を持っている。


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